[目 次] [前ページ] [次ページ] [第6部・採物(とりもの)]
「採物を使わない神楽はない」と言われる。
神楽は、大自然の繰り返しの中に、 先人達が幾世代もかかって生み育てた芸能である。 この大自然と人々の結びつきを象徴したものとして 採物をみると、それぞれの意味が広がっていく。 神楽がはじまる時、弊を持つ儀式舞の姿は、 一株一株稲穂を大切に、ぬかるみの田んぼで捧げるように刈り置いていく姿に似ている。 早春から丹精込めて作り上げた「米」によせる喜びがあふれている。 まさに大自然に宿る神々からの「贈り物」を授かる姿である。 弊は、大自然に暮らす人々の道具の総称に見える。 紅葉狩の姫たちの扇は、風に舞う美しき花びらが幾重にも吹かれていく様を感じる。 八岐大蛇の一説に、『姫が一人また一人と大蛇に呑まれていくのは、 大洪水にのまれていく田畑を意味している。』と言われる。 七人目の姫が大蛇に飲み込まれ、最後に姫の採物の絹布が、 大蛇の口に残った時、その前段の姫の舞が残像として蘇(よみが)えり、 大自然の恐怖と二重映しに見える。 演目のほとんどにクライマックスとして神と鬼のたたかいがある。 そこでの採物には槍・刀・弓などいろいろなものが使われる、 それらは有害な獣(けもの)や鳥を追い払う道具が 芸能の中で小道具として形造られたものかも知れない。 それぞれ採物は、登場人物の持つ「心と技」の延長線上で抽象的な役割を果たしていく。 |
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